「こころ」を解き明かし安らぎや活力を増進する科学技術を実装 幸福あふれる社会の実現へ
こんにちは。JSTのムーンショット広報担当、ニシムラです。
今回は、ムーンショット型研究開発事業として取り組んでいる9つの目標の中から、目標9『2050年までに、こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現』を取り上げ、この目標のプログラムディレクター(PD)である京都大学人と社会の未来研究院 准教授の熊谷誠慈先生へのインタビューをお届けします。
このプログラムでは、「個々のこころの状態理解と状態遷移」および「個人間・集団のコミュニケーション等におけるこころのサポート」を実現する技術の創出と社会実装を目指しています。「こころ」とは何なのか?幸福とは? 日本科学未来館科学コミュニケーターの大澤康太郎が聞きました。
科学技術で、より多くの人々の幸福に貢献したい
大澤 康太郎(日本科学未来館 科学コミュニケーター):
熊谷先生は仏教研究者だとお聞きしました。
熊谷 誠慈(京都大学人と社会の未来研究院 准教授):
私の実家がお寺で、私自身も現役の住職です。より深く仏教の勉強をしようと考えて、大学で仏教学を学びましたが、仏教の哲学・思想はとても広く、全然追いつきませんでした。自分が一部しか理解できていないと、実際にお寺で檀家さんに説法をするときに、きちんと「社会還元」ができません。それを克服するために、もっと理解を深めたいと研究を続け、今に至っています。
大澤:そのような「社会還元」への想いが、目標9 の設定にもつながっているのでしょうか。
熊谷:私のやりたいことの根本にあるのは、「contribution( 貢献)」です。仏教に関わる人間の一人として、人々の幸せに貢献したい。でも、それはとても難しいことです。まず、私自身の修行が足りていません。また、さまざまなことを研究しその成果を基に政策提言などをしても、その効果や利益が実際に皆さんに届くのには時間がかかります。じゃあどうしたら、と考えているときに出会ったのが、テクノロジーです。例えば「説法」は、伝える側のお坊さんにも習得に時間がかかりますし、お坊さん一人では、聞いてもらえる人の数にも限りがあります。ところが、私たちが開発した「ブッダボット」というブッダの言葉を届けられる対話型人工知能を使えば、時間や距離の制約を超えて、多くの経典を短時間で学ぶことができ、それを多くの人に直接届けられることが分かりました。これは、人工知能の専門家と協力することで可能になったことです。目標9でも同様に、認知システムの研究者や心理学者、音楽家など、自然科学と人文社会科学の垣根を越えてさまざまな分野の専門家と協働し、異分野を融合した「総合知」に基づいて科学技術を開発することで、より多くの人の幸福に貢献できるのではないかと考えています。
大澤:この目標では「こころ」というのがキーワードだと思います。「こころ」とはどのようなものなのでしょうか?
熊谷:結論から言えば、「こころ」を誰もが納得する形で一元的に定義することは極めて困難です。「こころ」という言葉が指すものは多元的です。これまでは、例えば心理学では「こころ」とはこういうもの、神経科学ではこう、哲学ではこう、といった形で学問分野ごとに部分的に解き明かしてきました。このプログラムでは、さまざまな研究成果を統合して「こころ」を理解していきます。脳内の分子レベルから神経のつながり、さらに人間関係や普遍的価値観まで、つまりミクロからマクロ、自然科学から人文社会科学まで、さまざまな尺度で「こころ」を捉え、客観と主観を結び付けることで生理現象と価値判断をつなぎ合わせていきます。
大澤:なるほど。「こころ」を定義するのではなく、さまざまな角度から眺めて行くのですね。
熊谷:「こころ」を多角的に理解した上で、その状態を可視化したいと考えています。
「こころ」を遷移させ、幸福を増進する科学技術の創成を目指して
大澤:「こころ」の理解は、どのように人々の幸福につながっていくのでしょうか。
熊谷:現代は便利で豊かな社会になりましたが、必ずしもみんなが幸せだと感じているわけではありません。そこで、そもそも幸せとはどのような状態なのか、「こころ」を多角的に研究しながら「幸せ」を指標化し、科学に基づく「幸福増進指標」として提示したいと考えています。そしてその指標に基づいて幸福を増進させる幸福増進技術を開発することを目指します。そのような技術のためには、「こころ」の状態を知り、「こころ」が遷移するメカニズムを解明する研究も行わなくてはなりません。そして、開発された技術を社会に実装する研究も必要です。
大澤:具体的にはどのような研究・開発が行われるのでしょうか?
熊谷:目標9 では、マウスやサルを対象とした研究から、ヒトを対象とした研究まで幅広く行うことで、こころのメカニズムを解明するとともに、こころを遷移させる技術の開発を進めていきます。一例を挙げると、「東洋の人間観と脳情報学で実現する安らぎと慈しみの境地」というプロジェクトでは「瞑想」を扱い、瞑想状態がどのようなものなのかを脳情報学的に明らかにしていきます。座禅を組んで瞑想すると心がすっきりする人が多いと言いますが、誰にでもできるわけではありません。そこで、瞑想の熟達者とそうでない人の脳波から、脳の状態がどのように違うのかを解明していき、瞑想を行わなくても熟達者のような状態に「こころ」を遷移させる技術の開発を目指しています。このほかにも、音楽などの芸術を扱うプロジェクトや、子どものこころにフォーカスしたプロジェクトなどがあります。これらのプロジェクトを通じ、福祉の向上、そして前向きに生きられる社会の実現に、科学技術をもって貢献していきます。
大澤:「こころの状態を遷移する技術」と聞くと、怖いと思う人もいるかもしれません。
熊谷:確かに、脳を操作して行動を操られるような状況を想像すると、怖さを感じるかもしれませんね。まず考えたいことは、私たちはこれまでもさまざまな方法で「こころ」を遷移させてきたということです。例えば、リラックスするために音楽を聴いた経験は皆さんにもあるのではないでしょうか。こころの遷移方法として適切なものではないと思いますが、戦時中には気持ちを高揚させるために軍歌が使われたこともありました。重要なのは、「こころの状態の遷移」はどのような目的ならよいのか、どのような方法ならよいのか、どこまでならよいのか、ということを国民の皆さんと社会の中で議論し、合意を得ながら進めていくことだと思います。この議論そのものが、社会実装を進める上で重要な課題となります。
個人、集団、そして社会が幸せな状態へ
大澤:目標9 が目指す「精神的に豊かで躍動的な社会」について教えて下さい。
熊谷:全ての人々が生きがいを持って生活し、他者と思いやりのあるコミュニケーションを取り、個人・集団それぞれが自ら望む姿を実現できる社会であってほしいと考えています。現代社会に存在する、うつや孤独、対立など「こころ」にまつわるさまざまな事象に対して、時には最先端のテクノロジー、時には芸術、時には宗教などの伝統知を使って、自らがそれを望むのであれば、ネガティブな「こころ」の状態を抑制し、ポジティブな「こころ」の状態を増進することが可能になる社会を目指します。私たちの幸福感は十人十色ですから、それぞれが求める方向に「こころ」を動かすことをサポートできる技術や方法を創出することで、そのような社会を実現していきたいと考えています。
『JSTnews』2023年5月号にも掲載されています
An English version of this article is available on "Science Japan".