未来の医療のカギを握る技術「全身ネットワークシミュレーター」とは?
JSTでムーンショットの広報を担当しているマサトです。
この記事では、ムーンショット型研究開発事業として取り組んでいる9つの目標の中から、目標2『2050年までに、超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会を実現』を取り上げ、この目標のプログラムディレクター(PD)である愛知医科大学 理事長・学長の 祖父江元先生へのインタビューをお届けします。
この目標のカギを握るのは、健康状態の不安定化を予見するための「全身ネットワークシミュレーター」という技術です。祖父江先生はこの「全身ネットワークシミュレーター」を実用化することで、「体内の複雑な臓器間・組織間のネットワークを解明し、数理モデルやセンサーを駆使することで、病気の予測や病気になる前の“治療”も可能になる」と話します。
そんな未来の医療の鍵を握る「全身ネットワークシミュレーター」とは、いかなる技術なのか? 日本科学未来館科学コミュニケーターの寺村卓朗が聞きました。
がんや糖尿病などを対象に体内ネットワーク異常を検知
寺村 卓郎(日本科学未来館 科学コミュニケーター): 目標2では、難治性がん、糖尿病、認知症、ウイルス感染症の4つを中心に、超早期の予測・予防を掲げています。なぜこれらを選ばれたのでしょうか?
祖父江 元 (愛知医科大学理事長・学長): がんは日本国民全体の死亡原因の4分の1ほどを占めています。糖尿病患者は予備群を含め約2,000万人、高齢者に多い認知症は患者数が約600万人にのぼります。新型コロナウイルス感染症のような感染症は急に現れ、多くの人の健康を害する脅威です。このように早期診断、予防・治療が強く望まれており、健康寿命を延ばすために優先的に解決すべきとされる病気を選びました。
寺村: 病気の早期発見の重要性はこれまでにも指摘されていますね。
祖父江: 病気には、症状が現れるまでに時間がかかるものもあります。例えば認知症では発症の30年近く前から、病気の進行は始まっていることがわかっています。しかし今までは、発症までのプロセスが明らかになっていないので、発症してから治療していました。この目標2では、病気にならないうちに発見し、元の健康な状態に引き戻す「治療」の確立を目指しています。
寺村: 遺伝子検査などでも病気のリスクがわかるようになってきました。
祖父江: 確かに遺伝子の変異が原因で生じる病気は予測しやすくなりました。しかし、遺伝子に変異があっても、すぐに発症するわけではありません。生物の体はとても複雑で、常に状態を一定に保とうとする仕組みがあります。どこかの臓器で異常が発生すると、別の機能がそれを補うように働きかけ、元の状態に戻ろうとします。
寺村: どのようにして体内の異常が他の臓器にも共有されるのでしょうか。
祖父江: 臓器間にはネットワークが形成されていて、ホルモン物質や神経伝達物質など、さまざまな手段で情報を共有しています。こうしたネットワークは細胞や分子レベルでも存在します。一方、このようなネットワークがあるため、どこかに異常が生じると、他の所でも病気を発症する可能性が高くなります。だからこそ、異常を早急に検知し、早く健康な状態に戻していくことが重要です。そのために体の中で起きている現象を網羅的に捉え、体内のネットワークを解明する必要があります。
体内を行き交う膨大な情報 日常的に計測し解析に生かす
寺村: すでに生体情報から予測できる病気もあるのでしょうか。
祖父江: 動物の事例ですが、8週間ほどでメタボリック症候群を発症するモデルマウスを解析したところ、発症の2〜3週間前に、100を超える遺伝子の発現に通常の時とは異なるゆらぎが見られました。このことから、遺伝子発現のゆらぎを把握できれば、発症前の状態変化を捉えることができると考えられます。
寺村: 人の場合でも同じようにわかっているのでしょうか。
祖父江: 相関があることがわかってきた病気もありますが、まだ十分とはいえません。マウスであれば健康な状態から病気になるまで観察し続けられますが、人間ではそうはいきません。またデータが得られたとしても、体内でやりとりされている膨大な生体情報の中からどの異常が何の病気と相関があるかを丁寧に解析する必要があります。
寺村: まずは健康な時から生体情報を正確に計測するところからですね。
祖父江: 日本国内にも、数万人規模で健康診断の情報などを集めたコホート研究があります。毎年同じ人のデータを提供いただき、蓄積してきた貴重なものです。
寺村: 最近では、時計などのウェアラブルデバイスで血圧や体温を計れます。
祖父江: それらを使えば、より多くの生体情報が得られますね。異常を検知し、病気の超早期予測にもつなげられるかもしれません。私たちは体内ネットワークと病気の関係を明らかにし、日常的に計測できる生体情報から病気の予測や予防ができる「全身ネットワークシミュレーター」を実現したいと考えています。
寺村: どのくらいの精度で予測できるようになるのでしょうか。
祖父江: 昔の天気予報は、観測データが少なく予測の精度も低かったですね。しかし今では豊富なデータを基にした数理解析で、格段に精度が上がりました。私たちの目指す「全身ネットワークシミュレーター」も徐々にデータを蓄積していき、いずれは多くの病気を高い精度で予測できるようになるはずです。
寺村: 研究はどのような体制で進められていくのでしょうか。
祖父江: 4つの疾患ごとのチームとそれらを横断する数理解析チームに分かれます。順天堂大学の大野茂男特任教授は難治性のがん、東北大学の片桐秀樹教授は糖尿病を研究しています。また京都大学の高橋良輔教授は認知症を、大阪大学の松浦善治特任教授は感染症を研究しています。これら4つの研究を横断して、数理解析に取り組むのが東京大学の合原一幸特別教授です。
欠かせない市民の協力と理解 倫理的な課題にも取り組む
寺村: 臨床データの取り扱いにはどのようなルールがあるのでしょうか。
祖父江: 日本ではいくつか臨床データを集約している機関があり、利用の仕方や管理方法なども法律で非常に厳しく制限しています。しかし、これらのデータを使わないと、私たちは研究ができません。そこで重要になるのが、インフォームド・コンセントです。データ提供の際に、どういう意図で、何のためにデータを活用するのかを説明し、納得した上でデータを提供いただきます。その後、私たち研究者は臨床データを扱う機関と共同し、研究を進めていくことになります。
寺村: データを提供する私たち市民の協力が欠かせないですね。一方で、研究には協力したいが、個人情報の扱いが心配という方も多いと思います。
祖父江: 臨床データには、個人が特定できるデータと、特定できないデータがあります。例えば、ゲノム情報は個人を特定できるのに対し、遺伝子発現の情報は置かれている状況ごとに異なるので、特定しづらいという違いがあります。以前は特定しづらい情報でも扱うべきではないという風潮もありました。しかし、病気という脅威に立ち向かうためには、安全に生体情報を扱う仕組みを整えて、研究に活用していくことが必要です。そのため、今回のプロジェクトにも倫理的・法的・社会的課題を扱う専門家チームが入り、さまざまな課題を相談しながら進めていきます。
寺村: リスクと有用性をしっかりと把握した、実用的な仕組みづくりが重要ですね。最後に今後、このプロジェクトのどこに注目してほしいですか。
祖父江: 今までの医療では、病気になってから克服するという考えが主でした。しかし、これからはそれぞれの病気は連動しており、発症前に予測・予防することが大切であるという認識に変わりつつあります。研究者側だけでなく、読者の皆さんの認識も研究の進展に注目していただく中で、そう変わっていただければ、少しずつ医療のあり方も変えていけると思います。そして、2050年には病気の超早期の予測・予防ができる未来を応援いただければと思います。